ペルソナ persona

ペルソナは、社会的、文化的に適応したわたしたちの「表向きの顔」です。ユングは、ローマ時代に舞台上で役者がつけるマスクが「ペルソナ」と言われたことから、この言葉を借用しました。舞台に立って、お面をかぶった自分を想像してみてください。お面の口の割れ目から出てくる言葉や、身体の動作はどうなるでしょうか。こんな風に「役割」を演じているようなところが、わたしたちのふだんの生活にもあります。たとえば「お元気ですか」と言われると、元気じゃなくても「ええ、お陰様で。」などという言葉が自動的に出てきますが、これによって、自分のプライバシーをさらけ出さずに、円滑なコミュニケーションをすることができます。

ペルソナは、成長過程において形成されます。親や周囲の人々、そして環境からの期待や要請に合わせて発達するとともに、自分自身の「こんな風な人間でいたい。こんな風に見られたい。」という願望にも影響されて作られるのです。

ペルソナは、人間が社会の一員として生きていく上で、なくてはならないものです。しかし、社会に過剰に適応した結果、「本当の自分」とはギャップのありすぎるペルソナができてしまうことは問題です。また、このマスクが皮膚にぴったり張り付いてしまって脱げなくなり、「本当の自分」がどんな顔だったかわからなくなってしまうこともあります。適切なペルソナづくりとその認識は、ユング派の精神分析で扱うテーマのひとつです。

人が自分のペルソナとあまりに密着し、同一化したとき、病理の危険性が生まれる。

ペルソナとの同一化は、心理的な堅さや脆さを形成する。

ペルソナと同一化した自我は、外的な自分の位置づけしかできなくなる。内的なできごとに盲目となり、それに応じきれない。したがって、自分自身のペルソナにたいして、無意識のままなことも起こりうる。

ユング心理学辞典より

河合隼雄氏は、ペルソナとの同一性について以下のように表現しています。

衣服がペルソナを表わすことは、実際生活において、あまり自分の「こころ」を示すと危険な職業についているひとが制服を着ていることにも反映されている。軍人、警官、車掌などの制服は、人間のこころに深入りする危険性を制服によって防衛しているということもできるだろう。

しかしながら、防衛の手段としての制服は、しばしばそのひとの全身をおおってしまって、そのなかに生きた人間がいるのかどうかを疑いたくなるようなことも起こってくる。これが、ペルソナとの同一視の危険性である。

ペルソナの形成に力を入れすぎ、それとの同一視が強くなると、ペルソナはそのひとの全人格をおおってしまって、もはやその硬さと強さを変えることができなくなり、個性的な生き方がむずかしくなる。
いつか、マルセル・マルソーのパントマイムを見たとき、ある男がいろいろな面をかぶって喜んでいるうち、道化の面をかぶると取れなくなってしまって困る場面があった。面を取ろうと苦労して、身体はもがき苦しむが、どんなに苦しんでも、ずっと顔のほうは道化の笑い顔で、これは、まさに硬化したペルソナの悲劇を演じているものと感じられた。

河合隼雄「ユング心理学入門より」

「ペルソナ」については、以下に長いコラムを書きましたので、ご参照ください。

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