藤南佳代、わたしの裏履歴

表向きのプロフィールの裏の、カミングアウト的私記です。2016年4月に書いて公表したあと、しばらく引っ込めていたものに加筆しました。本文中の「現在」は、2016年です。

全部で原稿用紙17枚分もの長文になりますので、目次からご関心のあるところだけお読みいただければと思います。

ユング研究所に入った不純な動機(34歳)

スイスのユング研究所やISAP(アイザップ国際分析心理研究所)に在籍した世界各国からの留学生の中で、わたしほど、留学以前にユングのことを知らなかった研究生はいません。専門は心理学だったし、カウンセラーとしての臨床経験こそありましたが、ユングに対する知識は、ほとんどないも同然だったのです。そんなわたしが、なぜユング派分析家になったのか。ユング研究所の研究生になったいきさつからお話しします。

2002年3月、わたしは34歳で、ヨーロッパを旅行中でした。

この旅行に出る前は、日本の大学院に博士課程の学生として籍を置いたまま、心理学の研究をしているフリもしながら、それを隠れ蓑として実際には韓国の大学で日本語を教えていました。

大学の専任講師として身分や定収入が保証され、休みもたくさんあるのに、外国人講師なので面倒な義務は少なく、職場の中でも外でも無責任な旅行者気分でいられる気楽な立場でした。海を臨む高層ワンルームマンションで快適なひとり暮らしをしながら、「ここはまるで竜宮城、このまま、浦島太郎生活を続けてはまずい。年齢も年齢だし、そろそろケッコンもしなくては。」などと思いつつ、居心地のいいぬるま湯からなかなか抜け出せないという、典型的モラトリアム状態でした。

今と違って当時の34歳女子は、世間の常識では、はっきりと「結婚適齢期を過ぎた(嫁に)行き遅れ」とみなされていたし、日本の友人のほとんどはとっくに結婚して家庭を持ち、子育てに忙しい日々を送っていました。

年齢を自分へのプレッシャーにしてやっと重い腰を上げ、とりあえず韓国生活にはピリオドを打つことにして、次の放浪先を決めてそちらに移ろうとしていた、その境目の時期のヨーロッパ旅行です。

ベルギーの友人を訪ねていっしょにあちこち旅行して、最後にスイスで別れて、今度はチューリヒに住んでいた友人宅に転がりこみました。友人は平日は仕事で忙しかったので、わたしはひとりで退屈をもてあまし、今日は何をしようかなという毎日でした。

そこでふと「チューリヒといえば、ユング研究所っていうところがあったっけ。」と思い出したのです。ユングについてはほとんど知りませんでしたが、いつか大学の講義で聞いたことのあるその単語だけ、頭の片隅にかすかに残っていました。

友人のコンピューターを借りてインターネットで調べてみると、住所が出てきたので、暇つぶしの名所旧跡観光感覚で行ってみることにしました。

ユング研究所のあるチューリヒ郊外、キュスナハトはそれはそれは素敵な町でした。
スイス自体が、どこに行っても絵葉書の世界ですが、キュスナハトはまたひときわ別世界に見えました。

neighborhood2_250x188

駅を出て、湖畔に出ると、小さな港(上の写真)があり、そこからすぐに、おとぎ話の絵本の世界が広がっています。その日は小春日よりのぽかぽか陽気で、人気(ひとけ)のない湖畔の公園には、かわいらしい野の花があちこちに咲いていました。

観光目的地のユング研究所は、その公園からほんの少し先に行ったところにあり、「研究所」と聞いて想像するイメージからはほど遠い、写真のとおりのかわいい一軒のおウチでした。


湖に面した、手入れの行き届いた美しい庭に続く門は、呼び鈴を押すまでもなく簡単に開いたので、わたしは、秘密の花園にやってきた少女のような気分になって、うっとりとしながら中に入りました。さきほどの公園同様、この庭にもまったく人影はなく、太陽の光がふりそそぐ中、しんと静まりかえっています。

05200010_250x188

とそのときちょうど、日本人かなという女性と、明らかに日本人とわかる男性が建物から出てきて、ふたり連れだってこの門から外に出て行くのとすれ違ったのです。

いったん二人とすれ違ったあと、くるりと振り向いて、日本の方ですか?と声をかけると、女性は、ユング研究所の研究生、男性はわたしと同じ観光客でした。ふたりはたった今、ここで偶然出会ったところで、男性が研究所の話を聞きたいのでちょっとお茶でも、ということになったとのこと、よかったらいっしょにどうぞと言ってもらい、二つ返事でついて行きました。

その、今では日本でユング派分析家として活躍している日本人女性は、当時50代。日本で大学の教授として何不自由ない暮らしをしていたのに、”内的必要に迫られ”、先のことは考えず辞職してスイスに来たこと、ユング研究所の講義は英語でも聴くことができ、聴講生という身分なら誰でもすぐなれること、もうすぐ春の3ヵ月コースが始まること・・・等々を教えてくれました。

観光客男性は、わたしよりはずっとユングについて知っている理系の若手研究者で、学会でドイツまで来たついでにスイスまで足を伸ばし、「かの有名なユング研究所」に立ち寄ってみたと言っていました。いっしょに話を聞きながら、目を輝かせているわたしの横で、でもボクは日本が好きだから、日本を離れたくないなぁと言うのでその理由を聞くと、「日本は食べ物がおいしいしぃー、なんといっても女の子がカワイイから!」と言って、小柄な童顔に似合わない口ひげを生やした口元で、ニカーっと笑っていたのが印象的でした。

・・・今も、あの日のシンクロニシティ、ユング研究所の門で出会った二人に本当に感謝しています。あとで聞くと、当時研究生だった女性は、あの日、とても久しぶりに研究所に出向き、図書室にほんの短時間、寄ったところだったそうです。

あの日、彼らに偶然出会わなかったら、そして、あの日の天気があんなによくなかったら、わたしの人生は、今とはまったく違ったものになっていました。人生とは、誰にとってもそういうものだと思いますが。

ユングにとくに関心もなかったわたしは、ただただ、「このおとぎ話の絵本のような空間に、3ヵ月間、身を置いてみたい」という一心で、火事場のばか力を使ってスイスにそのまま居残りました。

本当にそのまま残り、いったん帰国して留学準備することさえしなかったのです。

ハイになってのぼせている自分の頭を冷やすために、旅行の出発点だったベルギーには戻って、友人を相手に「こんな無謀なことをしてもいいものだろうか。」と相談はしましたが。

ベルギーのこの友人も、スイスでしばらく居候させてもらった友人も、どちらも保守的でお堅いヨーロッパ人商社マンでしたが、意外にもわたしのこの突拍子もない思いつきに賛成してくれ応援してくれました。二人ともユング研究所を信頼していただけでなく、動機はともかく、精神分析がわたしに合っている勉強ではないかと思ってくれたようでした。今、わたしがここにいるのは、この二人のおかげでもあります。

あのとき使わなかったヨーロッパからの復路便のフライトチケットは、今も記念に手元に残してあります。

使わなかった帰りのチケット。2002年5月11日にパリから成田に戻るはずだった。

これほど不純な動機で、そしてこれほど滅茶苦茶で行き当たりばったりのやり方で強引にユング研究所生活を始めた研究生は、日本人はもちろん、外国人の中でも見たことも聞いたこともありません。「ユングを知らなかった度」もナンバーワンなら、研究所にもぐりこんだ経緯も赤面ものなのですが、熱い思いだけで、何も考えずに突き進むことのできた34歳の自分が、今では誇らしくもあります。

キュスナハトのこのユング研究所は、それからほどなくして分裂したため「‟旧”研究所」と呼ばれるようになり、日本からの研究者の留学先ではなくなりました。現在は、チューリヒの街の中心に位置するISAP(アイザップ国際分析心理研究所)が主流機関なので、まだ日本人留学生がキュスナハトのユング研究所にいた最後の時期に、わたしがふらりとあそこを訪れたことは、なおさら幸運な偶然だったと思えます。

関心も知識もなかった精神分析にハマる

ユングがどうでもよかったわたしは、精神分析にもまるで関心がなく、自分が精神分析を受けるなんて、想像したこともありませんでした。

でも、おとぎ話の世界に身を置くためには、表向きの言い訳が必要だったのでユング研究所の聴講生になったところ、自動的に精神分析も受ける羽目になってしまいました。

何の期待もなく、ものは試しと分析を受けに行ったのに、わたしは、すぐに夢中になりました。
(最初の分析がどんな感じだったかは、こちらの「イニシャル・ドリーム」のページの前半に書いています。)

以下は、かつて、旧ブログに書いたことです。

2002年に、精神分析とユング心理学に出会ったわたしは、「一生、飽きない面白いものを見つけた!」と興奮しました。
なにごとも熱しやすく冷めやすいわたしは、それまで、いろんなことに関心をもっては、「コレだ!」と思って首をつっこんできましたが、たいていは、そのうち熱が冷め、どうでもよくなってしまうということを繰り返していたのですが、このとき感じた「コレだ!」の手ごたえは、それまでの「コレ」とは、はっきり異質のものだったのです。

精神分析がこんなに面白いものだったなんて、夢がこんなにすごいものだったなんて知らなかった!
ユング研究所で学び始めて数年後、「これを、アカデミックな心理学者たちや、悩みを抱えた人だけのものにしておくのはもったいない!」という思いからホームページも作ってみたものの、伝えたいことをどう表現していいのかわからないまま、月日は流れました。

スイス旅行中にふらりとユング研究所に立ち寄ったあの日から、もうすぐ10年。
精神分析は面白い、無意識はすごい、という感動と驚き、そしてそれを表現できないもどかしさも変わっていませんが、数年間放置していたこのサイトを少しづつでも充実させていければと思っています。どうぞよろしくお願いします。

(2012年1月記)

最後の段落以外は、2005年にホームページを始めたときからずっと文言を変えていないのですが、あれからまた4年が経過した現在も、書き直すことがありません。

ただ、わたしがずっと「これを、アカデミックな心理学者たちや、悩みを抱えた人だけのものにしておくのはもったいない!」と言い続けていたのは、何を隠そう、自分がこんないきさつでユング心理学を始めたからだということは、今、初めて白状しています。

表向きのプロフィールとしては、つじつまが合っているように見えますが、ユング研究所の建物とロケーションに魅かれてユング心理学を学び始めたのが本当の理由で、カウンセラーだった自分の仕事に結びつけては考えていませんでした。

ユング派の精神分析家の資格取得を目指すことになったのは途中からの話で、精神分析の面白さにハマって、3か月のユング研究所滞在予定が5年という長期になった次第です。

裏履歴はここまでです。この先は、もっと過去に遡ったおまけ履歴になりますので、おまけ不要の方は、あとがきに飛んでください。→クリックしてあとがきへ

おまけ履歴:銀行員を辞めてカウンセラーになる(22歳〜26歳)

ユング心理学にも精神分析にも興味がなかったわたしですが、一応、日本では心理カウンセラーとして働いていました。

芋づる式に「ひとり白状大会」みたいになってきましたが、カウンセラーになったのも、立派な志があったからではありません。

バブル全盛期のミーハー女子大生 → 地元の地方銀行に腰かけ就職

というのが、わたしの社会人デビューでした。

専業主婦の母に育てられ、女は働かなくていいものだと信じていたわたしは、銀行で新人研修後に配属になった本社企画部での仕事にやりがいを感じ、働くことがとても楽しかったので、腰かけではなく、ずっと働きたいと思いました。わたしが入社したのは女も総合職に就けるようになって3年目の年で、企画部では、それぞれ1年前と2年前に配属されたふたりの女の先輩が脚光を浴びていました。

社会人になって、自分でお金を稼ぐ喜びに目覚めたというのもあります。学生時代もアルバイトはいろいろしましたが、正社員としてもらう固定給というのは、時給でもらうのとは感覚的にずいぶん違いました。銀行員になったら、1週間いつも同じリズムを繰り返してあっと言うまに一ヶ月が過ぎ、たいしたこともしていないのに、かなりの金額のお金がポンと入って、(自宅通勤だったので)どんどん貯まっていくのです。毎月、給料日になると、休憩時間に通帳を持って同僚といっしょに近くのATMに小走りに行き、順番に記帳しては、それぞれ自分の通帳をながめてにんまりしたものです。

とはいえ、この先ずっと、サラリーマンとして、限られた休暇しかない生活が定年まで数十年も続くことを想像すると、それは耐え難いと思いました。週休二日制が始まったばかりの頃で、カレンダー以外の休暇があるとすれば、もし結婚すれば最長10日間の新婚旅行に行けて、それが御の字という時代です。

それで、銀行員にはさっさと見切りをつけ、大学院に行って臨床心理士になることにしました。仕事もしたいけれど休みも欲しい、長期休暇を取るためには手に職をと思ったとき、職業の選択に迷いはありませんでした。

昔から人の話を聞くのが好きだったわたしは、高校生のときから、よく「将来、呑み屋とか小料理屋のおかみになったら成功しそう」と言われていました。臨床心理士はそのイメージの延長での選択でした。

せっかく就職した地元の優良企業を寿退社でもなく辞めるなんて、とあきれる親を横目に見ながら数ヶ月間ガリガリと受験勉強して大学院に進学したあとは、教授や周りの環境に恵まれ、すんなりと心理カウンセラーの道が拓けました。

おまけ履歴:大学院で心理学の研究に太く短く燃える

電話張を開いて片っ端から電話しまくり、自力で見つけた研修先で心理カウンセラーとして働き始めたのと平行して、わたしは修士論文のための研究にものめりこみました。

臨床心理学は、個々の事例を扱うという性質上、どうしても自然科学としての学問とは認められにくいので、わたしはアカデミックにも通用する一般心理学の分野で自分の興味の持てるテーマを見つけました。

認知心理学の領域で、Optimism(楽観主義)とPessimism(悲観主義)に関する統計調査をしてまとめた当時の論文は、国内で権威がある学会誌に掲載され、それから20年経った現在も問い合わせがくるほどで、修士論文としては上々の出来でした。調子に乗ったわたしは博士課程にも進学し、心理カウンセラーとしての臨床の仕事と、大学院での研究の両方を意気揚々とやっていたところ、あっけなくバーンアウトしたのでした。

おまけ履歴:バーンアウトして重症のアトピーになる(27歳)

バーンアウトと表現しましたが、その自覚はありませんでした。わたしは心理的には問題を感じておらず、仕事も研究もプライベートも順調で、自分の生活は充実していると思って満足していました。

そんな中で、ある日突然、重症のアトピーになったのです。全身の皮膚の色が変色し、顔は腫れて目も半分しか開いていない、いわゆるムーンフェイスにまでなりました。悲惨な状態を自分でどう受け止めていいのかわからなかったせいか、悲壮感が薄かったので、勤めていた病院のアルコール依存症の入院患者さんたちに「どっちが患者かわからない」とからかわれていましたが、実際、入院を考えてもよかったぐらいのレベルだったと思います。

ここで、このページの最初の方の話につながりますが、大学院の学生という肩書きを隠れ蓑として、実際には仕事も研究も中断して日本を離れることを決めたら、アトピーは日本にいるうちに瞬く間に治りました。

アトピー地獄そのものは1年以上続きましたが、発症も治癒も、どちらもまるで魔法にでもかけられたように、わずか数日間のうちに起きたことです。あれよあれよという間にひどくなって重症患者になり、東京中の名医を尋ねても、民間療法を試しても、アトピー産業に大枚を投じても何をやっても治らなかったのに、治るときには潮が引くようにさっと消えてしまい、あとは、何事もなかったかのような元どおり。人間の身体の不思議さを身をもって体験しました。まぎれもない心身症だったと思います。

満足してやっていたつもりの仕事と研究だったのに、いったんやめて距離をとってみたとき、どちらにも未練を感じませんでした。研究は、やっている間は楽しかったけれど、ずっと続けたいというほどのものでもなく、二度とあれほどの情熱を注げることもないだろうし、臨床の仕事は自分に合っていたけれど、相当な負荷もかかっていたということに気付いたのです。それで、研究の方は自分のペースで続けられるにしても、心理カウンセラー業は、もう足を洗ってもいいかもしれないと思いました。

そして現実から逃げ出して浦島太郎になったわたしは竜宮城にひきこもり、タイやヒラメの踊りを見ながら、アトピーのことも忘れて乙姫といっしょに幸せに暮らします。それは、かりそめの幸せにすぎませんでしたが。(完)

2019.4.15.やりなおしカミングアウト宣言

今までも時々、思い立っては小出しに暴露してきた自分の過去ですが、3年前に、心理的にはそれまでの20倍分ぐらいに感じられるこのページを書いて公開していたところ、やっぱり恥ずかしくなり、いったん出したものをまた引っ込めてしまいました。

そのとき、「人生のタイムリミットを意識し始めた昨今、開き直って生きていきたい。せっかく組織に属していないし、面倒なしがらみもほとんどないのだから、誰にも遠慮せず、人目や評価を気にせずにやっていきたい。」などとも書いて、自分にもそう言い聞かせたのですが、これがどうしてなかなか難しいものです。嫌われる勇気も軽蔑される勇気もなくて、あれこれ考え始めると、自分を隠しておくのがいちばん無難だという臆病な結論にたどりついてしまうのです。

34歳でヨーロッパに流れ着いたのが春なので、毎年、この時期にはあのときのことを思い出します。思い切ってこのページの内容を最初に書いたとき48歳だったわたしは51歳になりました。当時や過去を振り返りながら、今回は3年前よりももっと開き直って書き直したつもりです。また公開を後悔するかもしれませんが、今度は引っ込めないで踏ん張ろうと思います。

とんでもなく長いこのページを始めから通して最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。

「“犬も歩けば棒に当たる”的な人生だったよね。」とは、このページを最初に読んでもらった友人の言葉。「でも核心の部分が書かれてないから物足りない。」だそうです。

裏の裏まで知られている友人からの鋭いつっこみを受け、裏履歴のそのまた裏のカミングアウトは、還暦プロジェクトとして検討することにします。元気でいられたとしてもどんどん悪化中の老眼がそのときまで持ちこたえるか、あるいはその頃には、ハンディキャップを補ってくれる技術が進歩しているでしょうか。

イースターを控えた2019年4月15日、パリでノートルダム大聖堂の火災が起きた日に、ストックホルムにて記。

PAGE TOP